散骨
- pan-farm
- 1 日前
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函館は今朝も随分と冷え込みました。
寒い日が続いていましたが、日中はとても穏やかなお天気でしたよ。
木々の葉っぱもだいぶ落ちてきたね。

今日は人生初の「散骨」をしました。
亡くなった時もそうですが、一応わたくしが「喪主」みたいな感じなので。
故人は生涯結婚することなく、家族・子供を作らずに亡くなりました。
きっと家族や子供を望んだこともあるだろうけど、特にそれに固執することもなく、文字通り「自由」に暮らして、若くして散って逝った。
家族がいたらいたで、捻じれに捻じれ、拗れに拗れて「自由」とは程遠く苦しんでいる人達をたくさん見てきました。子供、親、姉弟、長男、長女、嫁、姑、本家、別家、墓、金、相続、財産、エトセトラ。
色んな要素があるんだろうけど、そんな時こそ、その人の本質が露呈したりしますね。
例えば「嫉妬」とか「欲」とか「メンツ」とか、他にもたくさん。ニンゲンが真ん中に据え置くべきものはそれじゃないだろって。
故人は僕の名義でお寺の納骨堂に数年いましたが、これまで色々な経緯を辿り、ある意味必然というか、故人が生まれ育ち、暮らした家がある場所へ戻り、散骨することになりました。
自分が生まれ育ち、暮らした家がある場所へ散骨なんて、なんと素晴らしい最高の死後ではないかと。薄暗い納骨堂や共同墓地よりも遥かにいいじゃん。
生前、故人は自分が生まれ育った場所へ散骨されるなんて想像しただろうか?独り身だったので、それなりに自分の行く末を考えたこともあるだろうけど、まさかこのシナリオは本人も想像しなかっただろうなー。亡くなってから15年。物語にはまだ続きがあったし、僕が生きている限りその物語には続きがあるんだと思う。
僕らの歳くらいになると、定年、退職後、老後、終活、墓などをどうするか?みたいな話になることも多いのですが、正直、そういう話題になると退散したくなります。考えたくない、逃げているというより、それそんなに大事?「受け入れること」と「諦めること」をごっちゃにしないほうがいい。
それよりも、還暦近くになり失ってしまったものを取り戻すことに僕は躍起になっています。失ったものって、それは「髪の毛」とか「視力」とか「歯」とか「肌のツヤ」とか見せかけの「若さ」なんかではなくてね。
奪われそうになる、失いそうになる「本当の自分」ってやつかな。

























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