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  • pan-farm
  • 2018年7月5日
  • 読了時間: 2分

どうでもいいけど、ヒド過ぎる天気。

記憶では、過去サイテーな初夏だね。

内地(本州)の人は信じられんと思うけど、ストーブ着けている家たくさんあるよ。

さすがに野菜も、生育障害とかもろもろ勃発。

で、今年で「開墾20執念」。

「何かやらないの?」と言われるけど、自ら主体的にはやらないな。

誰かを喜ばせたり、誰かの何かを祝うのは好きだけど。

思えば、幼いころから「畑」や「薪割り」や「野良仕事」は「フツー」にそこにあって、それは「ただの日常」であり、「生活」であり、「当たり前」であり、週末に「息抜き」や「趣味」や「子供の教育」のための「何か特別なもの」ではなかった。

家の中は、近年地元のタウン誌にも度々登場する「フツーではない母親」が大事にレストアしたアンティークで埋め尽くされ、それらは所謂「コレクション」ではなく、「日常の生活道具」であり、これもまた「フツーなこと」であった。

まあだから、そのような「暮らし」や「生活」があまりに「フツー」過ぎて、今更そのような「暮らし」や「生活」をいちいちブログやSNSで積極的に発信するという感覚も無く、故にその殆どが「ロックンロール・ミュージック」だったり、冬山の「崖」や「激パウ」だったりするんだろうね。

「質素倹約」、「足るを知る」、「必要は満たされる」

おそらくはその言葉すら知らないであろう「フツーではない母親」のもとで、そのような「暮らし」や「生活」が、毎日毎日「当たり前のこと」として繰り返されてきただけ。

反面、その「暮らし」や「生活」に埋没して「見失ってしまう何か」の怖さをいつも感じて来た。

思い返せば、東京での13年間(18歳~31歳)というのは、その反動だったんだろうね。

そこからまた20年。

極めて土着な「暮らし」や「生活」をしているにも関わらず、常に「ここではない何処か」を目指している感覚。

何処かに旅をしている訳ではないのに、いつも「ここにはいない」感じ。

「ここではない何処か」を目指しているのに、「いつもここにいる」という感覚。

極めて土着な「暮らし」や「生活」をしていながら、主体的且つ能動的に振り幅激しく振れている感覚。

加齢とともに、多少の頑固さは減り、多少のしなやかさを身に付けつつも、相変わらず譲れないものがあり、抜かれたくない牙があり、ちゃんと生きようと思えば思うほどめんどくさいことは減ることはなく。

それでも、想い描いている景色だけは、何も変わることがない。

では、本日のお休み前の1曲。

ドニゴールのシンガーらしいけど、全く知りませんでした。素晴らしい。

おまけで、「おいらの勝手にテーマ曲」のカバーも。世界中でカバーされている中でも一番好きかも。

 
 
 

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