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  • pan-farm
  • 2016年11月10日
  • 読了時間: 2分

僕の周りに、「トランプを支持する」なーんて人は誰もいない。

ほぼ同じ理由で、小池某を支持する人も、橋本某が好きな人も、安倍某を支持する人もいない。

つまり僕は、そういう「村」で暮らしている。

そして、彼らはいつだって圧倒的大多数で支持を得る。

普段、僕の生活圏では出会うことない、圧倒的大多数の人々。

同じ想いや価値を共有する仲間たちと、居心地のいい自分たちの「村」で暮らしていることで、いつしか見失っているものが沢山あると思う。居心地の良さに埋没していきながら。

むろん、簡単には理解できないのだが、自分たちの「村」の外側にいる人々に語りかける言葉を、いつしか「居心地よさ」と引き換えに放棄して、「理解不能」と簡単に片付けているのかもしれない。

自分たちの外側にいる彼らに語りかける言葉を探すこと、それを探し続ける事。

きっと、そこには「知性」とか「愛」とかがないと通じないんだろうけどね。

「極右」「極左」「ネトウヨ」「ヘサヨ」「レイシスト」エトセトラ、、、。

それらの「単語」で自分たちの「村」の外側にいる人間を「認定」「断定」「記号化」した瞬間に、何かが終わり、寸断・分断される。

確かに全うな怒りは健全な精神を保つ上で必要で、今はその全うな怒りさえも搾取されつつある。

多少なりとも知性のある「ニンゲン」を生業としているなら、簡単な「単語」で「認定」「断定」「記号化」するのではなく、言葉を探そうよって思うけどね。持っていないんだから、その言葉を。

自分の「村」の外側にいる人間って、イデオロギーとか国家とか宗教とかそういう大きな括りだけじゃなくてさ、親子・恋人・夫婦とかでもそうだと思うよ。

つまり自分以外のすべての他人。

言葉が通じない外側の人間って、実はすぐそばにいたりするし、イデオロギーとか国家とか宗教とかのそれよりも、遥かに絶望的な距離だったりするし。

しかも、それが自分の中に内包されているもう一人の自分だったりしてゾッとすることがあるよ。

例えば、オレの好きなロックンロールミュージックは、その自分と他者の隙間に身を投じて詩やメロディーを紡ぎだす。だからみんな、その顔に格闘とか苦闘が刻まれているのだなーと。

願わくばオレの野菜もそうありたいなーと。

オレにとって戦うって、つまりそういうことかなー?

では、本日のお休み前の1曲、つーか1枚だね。ホント、心の底(つまり底辺)から押し上げてくれるアルバムだよ。

 
 
 

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