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最近、何故か立て続けに「牛」さんがトラックの荷台に積まれて運搬されていく場面に遭遇します。


いずれもフェリー乗り場の近くってこともあるけど、赤信号待ちで隣を見るとたくさんの「牛」さんたちが荷台に乗っていて、目が合うのです。


彼らのこの先の運命と、自分のLIFEを重ね合わせてみると、随分乖離しているなーと思う。


あの目が合った「牛」さんが何処かの屠殺場で食肉として処理され、巡り巡って自分の口に入るのかと思うと、ビーフシチューもステーキもハンバーグもすき焼きもしゃぶしゃぶも、なんだか少々躊躇ってしまいます。


それ以前に、この「牛」さんたちを何処かへ運ぶトラックドライバーには到底なれそうにないです。こう見えてどう見えて、ヘタレでメンタル弱いんです。


以前にも書いたと思うけど、その昔、と言ってもそんなに大昔ってことでもないと思うけど、食料は自分で調達しなければならなかった時代。狩猟なり、農耕なり、漁なりで。

かつては生きるために食べて、食べることが生きることだったのかな?


アイヌの人たちは基本、狩猟とか漁とか?詳しくはないけど農耕もするのかな?

そういえば子供の頃、雪山の麓にアイヌのおじさんがいて、結構っていうかかなり雪山のイロハとか色々教えてくれたり面倒見てもらってて、山で仕留めた野ウサギの鍋をごちそうになったことがある。


今はスーパーとか、スーパー行かなくても通販とか宅配とかで何でも手に入りますね。


末端で誰かが手を下しているということが殆ど見えないし、想像する機会もないくらいないに便利な社会。


便利になればなるほど、それを享受すすればするほど、末端で手を下している人達がいることを忘れがちです。ていうか、敢えて見る必要もないくらいに社会は激変しているね。


例えば、ゴミを分別して決められた曜日に家の前に出す。当たり前のように。

でもそれを回収してくれる人がいる訳ですね。来る日も来る日も。


凶悪犯が死刑判決となれば、「あんなものは死刑になって当然」と画面の向こう側に怒りの矛先を吐き捨てるけど、誰かがその執行を本人に伝え、刑場まで連れていき、ボタンを押す人がいて、その死を確認する人がいて、その遺体を処理する人がいる。


自分じゃ到底できないことを誰かがやっている。


屠殺場で働く人も、ゴミの回収をする人も、拘置所で働く人も、ぜーんぶひっくるめて、「だって、お金貰ってるんだしそれが仕事でしょ」って、そう簡単に自分と切り離すことができないっす。だって全部自分の生活と地続きだもんね。


本当の意味での感謝とかリスペクトとかって、自分の身を何処に置くかってことで随分と違ってくるじゃないかと思う。さて、自分の身を何処に置こうか?


どちらの動画も「山」と「生き物」に対して一礼するんです。全然、人としてのレベルが違うし到底及ばないけど、自分も自分の手を汚しながら生きていきたいなぁーと運搬される「牛」さんと目が合って、そんなこと思ったヘタレのオジサンでした。





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