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かつて、自分たちの食べ物は「自分たち」で調達していた時代があったと思います。
農耕なり狩猟を行いながらね。
当然のように「大地」や「太陽」や手に入れた「獲物」の恩恵に対して、「敬意」というものが生まれたと思います。自分たちは「生かされている」という感覚かな。
それは「祈り」とか「儀式」とか「祭り」とかというものに置き換えたりもしたんでしょう、きっと。
そういえば最近は「祭るべく対象がない祭り」ってものが増えていますよね。
「それ、祭りじゃなくて、ただの自己主張じゃん」みたいなね。
話は戻りますが、現代の多くの人々の食べ物の調達手段は「自分たち」ではなく、ざっくり言うとスーパーとかになりますよね。
スーパーに肉やら野菜が到達するまでには実に多くの職種や人々が関わっているにも関わらず、スーパーで食材を手に入れたその恩恵に対しての「敬意」って生まれるんだろうか?ってふと思ったのです。もちろん自分も含めてです。
時代は変わっても、「敬意」は大事だよねって。
なんでそう思ったかって言うと、夕方のスーパーに行くと肉でも魚でも30%OFF、50%OFFのシールを店員さんが貼っていくじゃないですか。
お客さんも、いかに自分が得をするか?っていうマインド、その一点のみでそのシール貼りに張り付いてカゴに入れていくじゃないですか。
もちろん少しでも安くて自分が損をしない、得した気分になるのは僕も理解できます。
こんだけ収入が上がらず、物価高だしね。
でも、レジの人とか、バイヤーの人とか、物流の人とか、生産者とか、魚で言うなら荒れ狂う海で漁をする漁師さんとか、肉で言うなら屠殺場で生きている動物をさばく人とか、そういう人々のおかげで手にしているという感覚ってちょっとくらいはあるんだろうか?って、ふと思ったのです。
そんなことを何人かの人に言ってみたりしたのです。「そうだよね~」という人もいれば「そんなことイチイチ考えていたら生きていけない」と言う人も。
僕はね、シールを貼ったものを買う買わないとかいうことよりも、そういうことを感じ取れるニンゲンでいたいのです。
歳を重ねて色んな事がスポイルされている事に対して、麻痺して慣れていく自分と他人を見ると、余計にそう思うのです。
死ぬまでそういう感性は失いたくないなぁって。
それが出来たらニンゲンやってきてよかったなーって思えるよなーって思うのでした。
雷がピカピカ、ゴロゴロとチョー近いので、さっさと布団にくるまって寝ます。
文章とはほぼ関係ありませんが、このタイトル素晴らしいと思いません?
この二人、詳しいことはわからないしどうでもいいし、そりゃまぁ色々あるでしょう。
でもね、なんかそれでも互いにこの荒廃した世界に虹を描き出そうとうするところがね、ホント素晴らしいというか、ステキだなーと。
真っ当に生きてきた人の顔ってあるんだよね。
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